このごろ、本から離れておりました。嫌いになったわけではなく、忙しさにかまけて、というやつです。
近々、NORAという舞台を観に行きます。イプセンの『人形の家』を下敷きにした作品と聞いて、それならばと、まず原作を読むことにしました。考えてみれば、戯曲を台本としてではなく、読み物として読むのは初めてかもしれません。
読んだのは青空文庫に収められた古い訳です。百年ほど前の翻訳で、言い回しの一つひとつがどこか懐かしく、古書の香りのようなものが文字から立ちのぼってきます。読みやすくはありませんが、その古風さも含めて、悪くない読書でした。
なお、この先は結末に触れます。百四十年余り前の戯曲ですから、と言い訳をしつつ。結局二度読むことになった、その顛末です。
頁を閉じてからの話
まず、通して読む
第一幕は、白状すると退屈でした。
ノラという奥さんは、子どもが三人もいるというのに、ずいぶん気楽に暮らしているように見えます。可愛らしいと思うか、呆れるか、読む人によって分かれるところでしょう。子育ては乳母に任せる時代です。なるほど、外に頼めばこれほど身軽でいられるものかと、妙なところで感心したりもしました。
ただ、途中から様子が違ってきます。夫に内緒の借金の話がちらりと出てきます。厄介な客が訪ねてきた場面では、ノラは夫を相手に、舞踏会の衣装の話にまぎれさせながら、さりげなくその客の過去の罪へと話を運んでゆく。幕切れでは、自分のしたことが子どもらに及ぼすものを、ひどく恐れてもいる。能天気なだけの人に、この会話の運びと、この恐れ方はできないのではないか。意外に含みのある人なのでは、という邪推が芽生えました。
第二幕で、風向きが変わります。追いつめられたノラが、仮面舞踏会で踊るタランテラの練習と称して激しく踊る。読みながら、これは舞台で観たい、と思いました。もともと役としての踊りや歌が好きなたちなので、なおさらです。踊りのなかに狂気が混ざってゆくさまは、紙の上ではどうにも立ち上がってこない。
戯曲から舞台を思い描く力が自分に足りないのだと歯がゆく思いましたが、それならそれで、劇場に行く理由がひとつ増えただけのことです。
そして第三幕。
正直なところ、置いていかれました。
ついさっきまで踊っていた人が、終盤、急に別人のように理路整然と夫を裁き、家を出てゆくのです。人形のように扱われることへの嫌気は、わかります。気ままに愛でられ、気に入らなければ叱られ、一個人として扱われないことのしんどさも。けれど、そこへ至るまでの苦しみが、私にはうまく読み取れていませんでした。だから最後の変わり身が、あまりに速く見えたのだと思います。
もう一度、最初から
腑に落ちないまま本を閉じるのも据わりが悪く、初めから読み返しました。
すると、最初のページからノラが違って見えるのです。
彼女が鼻歌をうたい出すのは、夫が在宅だとわかってから。こっそり口にするお菓子も、夫に隠れて続けた写し物の内職も、秘密を持つことそのものを、どこか楽しんでいるふしがあります。借金を打ち明けるときの、あの得意げな口ぶり。あなたのお気に召すなら歌でも踊りでも、という台詞。
小鳥のようなノラは、素顔ではなく、夫のための演目だったのだろうと思います。第三幕の変わり身は、豹変ではなく、幕引き。演技をやめただけのことでした。答えは、最初のページからずっと書いてあったのです。
彼女が待っていた「奇蹟」の正体も、二度目にはよく見えました。私のためなら命を捨てることも厭わない、それほどに愛されているという証。それが訪れなかったとき、壊れたのは夫への愛というより、八年のあいだ演じ続けたことの意味そのものだったのでしょう。
幕が開く前に
劇場で観たいものが、いくつかできました。紙の上から立ち上げてやれなかったタランテラ。そして、ノラが演技をやめる瞬間の顔。あれは戯曲のどこにも書かれていません。
とはいえ、答え合わせに行くつもりもないのです。二度読んでわかった気になっているものが、舞台の上でまたひっくり返るのかもしれない。むしろそれを楽しみに、なるべくまっさらな気持ちで席に着こうと思います。
幕間記録は、また後日。

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